LOGINお風呂から上がると、リビングの灯りが少しだけ眩しく感じた。
ドライヤーをかける前の髪から、ぽたりと水が落ちる。 タオルで押さえながらリビングに入ると、悠斗が本棚の前に立っていた。 「何してるの?」 私が声をかけると、悠斗は少し驚いたように振り返った。 「あ、いや。別に」 その視線が一瞬、棚の上に置いたクラゲのキーホルダーへ向いた。 私はそれに気づいてしまった。 淡い水色のクラゲ。 写真集の横に置かれた、小さな思い出。 悠斗が買ってくれたもの。 嬉しかったもの。 でも、バッグにつけられなかったもの。 その全部が、そこに並んでいた。 「……気になっ部屋の前に着く頃には、腕に抱えた花が少しだけ重くなっていた。 大きな花束ではない。 淡い黄色の花と、白い小さな花を一本ずつ。 それなのに、電車の中でも、駅からの道でも、私はずっと少し気を遣っていた。潰さないように。傾けすぎないように。紙袋のパンにぶつけないように。 バッグの中には、薄紙に包まれた小鉢がある。 手にはパン屋の紙袋。 腕には花。 朝、この部屋を出た時より、帰ってきた私は少し荷物が多かった。 鍵を開けて、扉を開く。「ただいま」 いつもの部屋が、静かにそこにあった。 薄い青のカーテン。 水色の花瓶。 クラゲのキーホルダー。 丸いテーブル。 二脚の椅子。 朝、ここを出る前と同じ景色なのに、玄関に立つ私の中には、知らない駅のホームや、工房の土の匂い、ほうじ茶の温かさがまだ残っていた。 まず、花を置く場所を作ることにした。 窓辺の水色の花瓶には、終わりかけの花が残っていた。 数日前から、そろそろ替えようと思っていた花だ。 私は紙に包まれた新しい花をテーブルに置き、花瓶をキッチンへ運んだ。 古い花を抜く。 少しだけ寂しかった。 この花も、何日か私の部屋にいてくれた。朝の光の中にも、夜の窓辺にも、ちゃんとそこにあった。「ありがとう」 小さく言って、新聞紙に包む。 前なら、こんなことを声に出す自分を少し変だと思ったかもしれない。 でも今は、別にいいと思える。 誰かに見せるためではない。 私がそうしたいから、そうするだけだ。 花瓶を洗い、新しい水を入れる。 淡い黄色の花と白い小さな花の茎を少し切って、そっと挿した。 水色の花瓶に、黄色と白。 薄い青のカーテンの前に置くと、部屋の空気が少しだけ明るくなる。 派手ではない。
工房を出る時、作家さんは扉のところまで見送ってくれた。「気をつけて帰ってくださいね」「はい。今日はありがとうございました」「こちらこそ。また使った感想、いつでも聞かせてください」 そう言われて、私は少し笑った。「今度は小鉢の感想ですね」「楽しみにしています」 感想を求められているのに、急かされている感じはしない。使って、暮らしの中に入って、それから自然に言葉になったら聞かせてほしい。そういう温度だった。 朝倉さんも少し後ろから出てきた。「駅までの道、大丈夫そうですか」「はい。来た道を戻れば大丈夫です」「途中のパン屋さん、まだ開いていると思います。花屋は駅の反対側です」「危険な情報が増えました」 そう言うと、朝倉さんは少し笑った。「無理のない範囲で」「はい。見てみたいと思ったら」 必ず寄ると決めなくてもいい。でも、見てみたいと思った時に寄ってもいい。帰り道にそういう余白があることが、少し嬉しかった。「では、また」 私が言うと、朝倉さんは静かに頷いた。「はい。また」 その言葉を受け取って、私は工房の小さな看板の前を離れた。◇◇◇◇ 住宅街の道は、来た時より少しだけ親しみやすく見えた。 さっきは本当にここで合っているのかと不安になりながら歩いていた。今はバッグの中に小鉢があり、工房で飲んだほうじ茶の香りがまだ手の中に残っている気がする。 知らない道だったものが、一度歩くだけで少しだけ知っている道になる。 それは小さなことなのに、胸の奥を静かに明るくした。 角の家の鉢植えには、来る時にも見た白い花が咲いている。行きは緊張していて、ただ「花がある」と思っただけだったけれど、帰りはその鉢が丁寧に並べられていることや、土が乾きすぎていないことまで目に入った。 誰かがここで水をあげている。 誰かの普通の日が、この道にもある。
ほうじ茶の入ったカップは、手の中でゆっくり温かかった。 工房の隅に置かれた丸いテーブル。 少しずつ形の違う椅子。 窓から入る午後の光。 棚に並んだ器。 書店の展示室とは違う静けさが、ここにはあった。 白い壁に写真が並んでいた書店では、見る側として少し背筋が伸びていた気がする。けれど工房では、器も写真も、もっと生活に近い場所にある。お茶を飲む手元に器があり、少し離れた棚にも器があり、奥にはこれから器になるものがある。 私はカップを両手で包みながら、息をついた。「このカップ、持ちやすいです」「よかったです。少し厚めにしているので、熱いお茶でも持ちやすいんです」 作家さんはそう言って、自分のカップを軽く持ち上げた。「薄いものもきれいなんですけど、毎日使うなら、少し安心できる厚さがある方が好きな方も多くて」「分かる気がします」 私はカップの縁に指を添えた。 きれいで繊細なものにも憧れる。 でも、毎日使うなら、少し雑に扱っても怖くないものがいい。 朝の忙しい時間に手に取って、夜に洗って、眠いまま食器棚へ戻す。そういう繰り返しの中で使うものには、美しさだけではない安心感が必要なのだと思った。「藤崎さんの深皿も、けっこう使ってくださっているんですよね」 作家さんに聞かれて、私は少し笑った。「はい。ヨーグルトと、トマトと、かぼちゃと、茄子の味噌炒めを入れました」「茄子、例の」「例の茄子になってる」 思わず言うと、作家さんが楽しそうに笑った。「すみません。あの話、好きで」「少し焦げただけなんですけど」「焦げた話って、使っている感じがしていいんです。飾るためじゃなくて、本当に食べているんだなって分かるので」 その言葉に、私はカップの中のお茶を見つめた。 飾るためじゃなくて、本当に食べている。 それは、今の私の生活そのものかもしれない。
包まれた小鉢は、バッグの中でとても静かだった。 薄紙に包まれて、緩衝材に守られて、財布やノートの隣に収まっている。重いわけではないのに、バッグを肩にかけ直すたび、そこに何かがあることはちゃんと分かった。 今日、私が選んだもの。 まだ部屋には着いていないけれど、もう少しだけ私の生活に入り始めているもの。 その重みが、なんだか嬉しかった。 工房の中では、他のお客さんが器を手に取り、作家さんはその人と話しながら時々笑っていた。棚にはまだたくさんの器が並び、窓際の写真には午後の光が少しずつ傾いている。 私はその景色をもう一度ゆっくり見た。 知らない駅で降りたことも、扉の前で少し緊張したことも、小鉢を手に取って迷った時間も、全部ここへ来たからできたことだった。 来てよかった。 何度思っても、その言葉が自然に浮かんだ。「帰りは駅まで大丈夫そうですか」 朝倉さんに声をかけられ、私は振り向いた。「はい。来る時に道は分かったので」「この辺、少し似たような道が多いですから」「それは少し思いました。住宅街に入った時、急に不安になりました」「看板、小さかったですよね」「でも、見つけた時はかなり安心しました」 そう言うと、朝倉さんは少し笑った。「初めての場所の看板って、頼もしいですよね」「はい。あの看板が見えた時、少し自分を褒めました」「それは褒めていいと思います」「大げさじゃないですか」「知らない場所まで一人で来るのは、けっこう大きいことだと思います」 朝倉さんの声は、いつものように落ち着いていた。軽く流すのではなく、私がここまで来たことを、そのまま受け止めてくれているようだった。 私は少しだけ視線を落とす。「前なら、たぶん来なかったと思います」「そうなんですか」「気になるとは思っても、一人で行くほどじゃないとか、詳しくないからとか、何も買わなかったら悪いと
中央のテーブルに戻ると、淡い緑がかった小鉢はさっきと同じ場所にあった。 当たり前なのに、少しだけほっとする。 誰かが先に手に取って、そのまま選んでしまったら、それはそれで仕方ない。 ここに並んでいる器は、私のためだけに置かれているわけではない。 でも、まだそこにあることが少し嬉しかった。 私はもう一度、その小鉢を手に取った。 さっきよりも手が慣れている。 重さも、縁の揺れ方も、指に触れるざらりとした感触も、少し分かる。 青みのある深皿とは違う。 でも、どこか似ている。 主張しすぎない色。 光の当たり方で少し表情が変わるところ。 何を入れるかを急かさないところ。 私は小鉢の中を覗き込んだ。 ひじき。 おひたし。 冷奴。 果物。 それから、煮豆もいいかもしれない。 小さなものを少しだけ入れる器。 食卓の真ん中に置くのではなく、端にそっとある器。 でも、その器があるだけで、食卓が少し整って見える。 そういうものが、今の私の生活にあってもいい気がした。 作家さんが、少し離れたところから声をかけてくれた。「気になりますか」「はい。何を入れるか、いろいろ考えていました」「それはもう、かなり気になっていますね」 作家さんが笑う。 私もつられて笑った。「前に買った深皿より小さいので、使うかなって少し迷っていて」「小さい器って、意外と出番がありますよ。少しだけ何かを入れたい時に、便利なんです」「少しだけ」「はい。おひたしでも、果物でも、残ったおかずでも。主役じゃなくても、食卓にあると落ち着くことがあります」 その言葉を聞いて、私は手の中の小鉢を見た。 確かに、この器は食卓の真ん中に置くものではないのかもしれない。 端にそっと置
朝倉さんは、手に持っていた紙の束を近くの棚に置いた。「すみません。少し奥の準備を手伝っていました」「作業中でしたか」「いえ、ほとんど終わったところです」 そう言ってから、朝倉さんは工房の中を軽く見回した。「どうですか、ここ」 その問いに、私はすぐには答えなかった。 白い壁。 木の床。 棚に並ぶ器。 奥の作業場。 土の匂い。 窓から入る光。 書店とは違う。 でも、書店の展示と確かにつながっている。「来てよかったです」 私は言った。「まだ全部見たわけじゃないんですけど、器が展示室にあった時より近く見えます」「近く」「はい。飾られているものというより、ここから誰かの家に行くものなんだなって感じがします」 朝倉さんは少しだけ嬉しそうに頷いた。「それ、作家さんが聞いたら喜びます」「さっきも少し話しました。思った通りにならないものが、意外とよかったりするって」「彼女らしいですね」「料理も少し似てるなと思いました」「茄子の味噌炒めですか?」 私は驚いて朝倉さんを見た。「え」 朝倉さんは一瞬きょとんとして、それから困ったように笑った。「すみません。作家さんから聞きました。展示のあと、藤崎さんが茄子を作った話をしていたと」「そこまで伝わってるんですか」「たぶん、すごく嬉しかったんだと思います。器を使った話も、普通の日に使っている話も」 私は少し恥ずかしくなった。 茄子の味噌炒め。 少し焦げた夕飯。 それが工房まで届いている。 でも、不思議と嫌ではなかった。 笑われた感じではなく、ちゃんと生活の話として受け取ってもらえている気がしたから。「少し焦げました」「それも聞
昼休み、スマホが震えた。 私は資料から顔を上げ、デスクの隅に置いていたスマホを見る。 悠斗からだった。『今日後輩来るから適当に飲み物買っといて』 私は画面を見つめたまま、少しだけ指を止める。 ――後輩。 今朝言っていた人だろう。『わかった。何人?』
翌朝、目が覚めるとソファの上に毛布が落ちていた。 悠斗はベッドに戻ったらしい。 私はぼんやり天井を見上げたまま、小さく息を吐く。 身体が重い。 昨日はちゃんと寝たはずなのに、疲れが抜けていなかった。 時計を見る。 午前六時半。 あと三十分で悠斗を起こさないといけない。
食器を洗い終わった頃には、時計は十一時を回っていた。 悠斗はまだ帰ってこない。 私は濡れた手をタオルで拭きながら、なんとなくリビングを見渡した。 静かだった。 冷蔵庫の低い音だけが聞こえる。 こんなふうに一人でいる時間なんて、昔はいくらでもあったはずなのに。 最近は妙に落ち着かない。
玄関のドアを開けた瞬間、部屋が暗いことに気づいた。 午後九時過ぎ。 いつもならテレビの音がしている時間だった。 「……ただいま」 返事はない。 分かっていたことなのに、少しだけ肩の力が抜ける。 私はヒールを脱いで揃える。 その横には、朝履いていった悠斗のスニーカーが無造作に転がっていた。 ――また。